DR.SORGE

5.6.10

Eugen Ott

オイゲン・オット

ドイツの軍人、外交官。
日本では1941年10月のゾルゲ事件に巻き込まれた駐日ドイツ特命全権大使
リヒャルト・ゾルゲを私的顧問とし、さまざまな対日外交政策へのアドバイスを受ける一方、日本政府や日本軍の動きをゾルゲから入手したと言われている。

1939年6月 エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー外務次官に対し「ドイツとソビエト連邦との戦争が勃発すれば、日本はドイツ側で参戦する用意が既にある」と打電した。翌年日独伊三国軍事同盟が締結されたが、この締結交渉にオットは加わっていない。なお、ゾルゲは実はソ連のスパイで、大使の私的顧問として大使親展の機密情報に近づき易い立場を利用して、「バルバロッサ作戦」の正確な開始日時を事前にモスクワに報告した。

第二次世界大戦中は、リッベントロップの見込みとは違う方向に進んでいく戦争の情勢を正確に伝えることに腐心していた。しかし1941年10月に、オット直々の推薦で大使館情報官となっていたゾルゲが実はソ連のスパイで、数々の機密情報を入手しソ連に送っていたことが発覚し、警視庁特高部特高第1課と同外事課によって逮捕された。当初オットは「不当逮捕」として外務省に抗議し、ゾルゲに面会を求めるもゾルゲは犯行を自白した。

これを受けてオットはフォン・リッベントロップ外務大臣に辞表を提出したが拒否された。さらにその後1941年12月に日本がイギリスやアメリカなどの連合国と開戦し、ドイツもアメリカとの間に開戦したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続け、ようやく1942年11月になりフォン・リッベントロップ外務大臣より駐日大使を解任された。

後任は駐南京国民政府大使のハインリヒ・シュターマーとなった。なおその後、駐日公使であったエーリッヒ・コルトが駐南京国民政府臨時公使となった。解任され離日が決まったものの、日本政府から信頼の厚かったオットは離日前に昭和天皇から会食に招かれ、その後中華民国臨時政府の北京へと家族とともに向かった。

第二次世界大戦の終了まで、オットは私人として北京にいた。ドイツ本国に対して軍への復帰を希望したが、帰国ルートが限られていることと、万が一危険を冒して帰国する途上で連合国軍に捕まった場合、様々な秘密が漏れる可能性が高い事を理由に拒絶されている。

戦後は1951年以降、西ドイツのバイエルン州トゥツィンクに隠棲して長い余生を送り、シュライヒャーを弁護するため一般向けの講演会をしたり、記事を専門誌に寄稿したりしていた。1977年に同地で死去。